昨年の7月に手に入れたiPhone、8月に入手したXperia、運命は至極簡単だった。iPhoneは何時までも使われるだろう。一方、Xperiaは既に無くても困らない物と化しています。
なんとも残念だが、Androidマシンはどうも使い勝手がわるい。画面をスクロールしても、iPhoneのように指先に張り付かない画面は気持ちがよくない。なにか、くすぐったいキーボードのようです。(くすぐったいキーボードとは、なじまないキーボードで、いつまでたっても指先がくすぐったいのです。それだけで、キー入力がしたくなくなり、入力装置として落第です。それでも使いますよ、買ったのだから。でも、使っていて気持ちが悪い。) なんか落ちつかない機械を触っている。そんな感覚。
それに加え、ドコモのサポート打ち切りという現実を見てしまった。
やはりWindowsだという軽いショック。共通プラットフォームを提供し、ハードウェアに競争をさせる。しかし、ハードウェアは性能ばかりを追い求め、使い勝手やこれでもかというこだわりに欠けたものとなる現実。一つのものに拘り徹底的に磨き上げるという過程を経ぬまま、機能競争に明け暮れ、次々に新しい機種を生み出し、互換性や既存ユーザーをないがしろにして、次々と買い換えさせる。
そこには、使い込む楽しみも、物を愛する感覚も生まれない、見事に無機的な道具が生まれる。道具を使い込むことによって、価値を生み出す楽しみは得られない。
その点は、iPhoneがあればパソコンを使わなくなるという現実と大きく異なる。Andoroidを持っていても、パソコンは使い続ける。Androidはあくまでも携帯端末であって、PCに変わるものではない。
一方、iPhoneは、PC特殊な部分以外のメールを読む、書く、Webを閲覧するという、日常パソコンを使う業務(活動)の多くを代替してします。PCでしかできないことはPCで行い、それ以外はiPhoneでという分業体制を確立してしまう。フラッシュは見られなくても、ブラウジングの快適さは、PC以上です。どちあかというと、PCがもどかしく感じるぐらいです。
一方、Androidでは携帯できることが便利なだけで、家に居ればAndroidではなく、PCでブラウジングしてしまう。結局は作業を代替できていないということに気づきました。やはり、PCのまねをした、PCではない携帯端末なのでしょう。
日々、利用時間が少なくなり、先にも書いたとおり、気がつけば寝る前の数分ベッドでメールを読む、朝の目覚まし時計の代わりと化してしまった。それ以外には、電車の時刻表、電車の中でのブラウジング程度が限界の用途と化しています。 その機能と能力からすれば残念なことですが。
PCを使う時間をどれだけ置き換えられるかが、iPhoneやAndroid端末に課せられた役割だとすると、現では iPhone >>>>>> Androidとなってしまう。
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